スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • -
  • |
  • -
  • |
  • -

『事件論』

人はいやおうなく「犯罪」に吸い寄せられてしまうことがある、ということ。
たぶん、「犯罪」を犯した人と犯さなかった人の間には、想像するよりもずっと狭い溝しかないのだろうと思う。
「人は、死ぬことが出来る、そして必ず死ぬべき存在である限りで、自ら死ぬこともあれば、また人を殺すこともある。意図的に自分や他人を殺さないのは、逆立ちをして歩くことはめったにないのと同じ程度の偶然ではなかろうか?」(粉川哲夫・シネマノート)
というのを、読んでいて思い出した。
あと、『「難死」の思想』の、人は被害者であると同時に加害者でありうるという話も。

『シェークスピアは誰ですか?』

何というか、こういう研究があるああいう研究もある、というのを羅列しているだけで、「それで何?」と言いたくなる本だった。
もっと謎解きのスリリングさとかがあるのかと思って読んだのですが、当てが外れました。
こういうものは簡単に断定できるものじゃないんだろうな、というのは分かるけど、それにしても全然結論を言おうとしないのはどうなの。
責任取りたくないから逃げてるみたいに見える。
文章を計量化することそのものは有効な方法なんだろうなと思うけどねー。

むしろ参考文献に面白そうなのがあったので、それでも探してみるかな…。

『言語世界地図』

言語というものについて、知っているようで案外知らないものだと実感。
特にヨーロッパ辺りなんかは、けっこう複雑に混ざり合ってるんだなあ、と。
単一民族で単一言語(建前上で?)な日本に住んでいると、その辺の感覚ってあまり実感できなかったりしますしね。
全体として、本当にざっと触れているぐらいの感じですが、主立った国(と地域)についてはひととおり載っていますし、なかなか興味深かったと思います。

『失われた建築の歴史』

評価:
ジョナサン グランシー,中川 武
東洋書林

この本を読むと、戦争だとか政治的判断だとかが、いかに多くの文化的遺産(たぶん建築に限らず)を破壊するものなのかがよく分かる。
そして、何年だか何十年だか何百年だかして誤りに気付いた頃にはもう遅い。
…でもきっと、これからだってこういうことは何度でも繰り返されるんだろうなあ。

内容としては、フィクションの中の建築(ゴーメンガースト城もあった)や作られなかった建築も「失われた」うちに入れている発想が面白い。
収録してある建築と図版の数も多くて充実している。
個人的には、こういう過度に感傷的な文章はちょっと苦手なんだけど、まあこのへんは好みの問題かな。
値段がこの半分なら手元に置いておきたい本です。


そうそう、ベックフォードのフォントヒル・アビーというのはちょっと詳しく調べてみたいかも。
と、自分用のメモ。

『「難死」の思想』

たとえば反戦論者の言葉を聞いたときに感じる、嘘臭さや薄っぺらさ。
紛争のニュースに心を痛めて見せる自分が、偽善者っぽくて後ろめたく思うこと。
この本の著者の言葉を借りて言うなら、そういうのは「自分の中にもちこたえている」言葉や思いじゃないから、嘘臭かったり後ろめたかったりするのかな、と思ってみたり。
平和とか平等とか戦争とか、何処かで気になってはいても、「自分のもの」として考えたことはなかったかもなあ、と、ここ最近のアフリカや中東の情勢をニュースで見ながら考えている。

「ベトナム反戦運動を始めるまで、私はたかだかアジア、アフリカも日本のように独立した国になったらいい、なるべきだというぐあいに考えていたのだろう。アジア、アフリカは日本のようにではなくアジア、アフリカのように独立するべきだし、それ以外に道はない。(※太字は本文中では傍点)」という言葉が印象に残ってる。
国のかたちも人々のあり方も、一様である必要はないし、まして西洋に右へならえをする必要はまったくない。
でもみんな無意識のうちにどこかで、欧米を規範として考えている気がする。
そもそも民主主義を所与のものとして、当たり前に正しいものである前提として、問い直すことすらしないことにも、危うさを感じることがある。

それからもうひとつ、「たとえ、それが強いられたものであり、哀歓のこもったものであろうと――人は、「哀歓のこめられた生活の息づかい」のなかでも、十分に加害者たり得るのだ。」という言葉を、このあいだの原発問題に関する村上春樹氏の発言を聞いて思い出してた。
国は確かに誤りを犯したかもしれないけど、私たちはただ純粋に100%被害者というわけではないはずなのだから。

『イギリスの古城』

最近のものだとまず見かけないけど、この本みたいに少し古い本(これは新装版だけど初版は1986年)だと、こういうわりと客観性の高いはずの内容のものでも、普通に文章に私情が入っていて面白い。
著者が訪れたときの思い出とか、思い入れの強いものについてはやたら熱く語ってみたりとか。
あんまりそれが鼻につくといらっとすることもあるけど(笑)、淡々と羅列されるより読んでいて楽しいのも事実。
独りよがりになるのも違うだろうけど、そこにその人の気持ちだとか思い入れだとかが見えない文章も、それはそれで味気ないものなんじゃないかなあ、と思ったり。

内容としては、ある程度建築関係の知識(名前とか歴史とか)がないと分からなさそうだなあ、という感じ。
いやでも写真が多いので、それながめてるだけでもわりと楽しいですが。
シリーズで他の国のもあるみたいなので、それもそのうち読んでみたい。

ちなみに、方角とか図版の番号とかけっこう間違ってる気がします(キャプションにも違うのがある気が)
新装版にするとき直さなかったんだろうか…。

『近代技術と社会』

内容は正直言って微妙。
技術史の話がしたいのか、技術論の話がしたいのか、技術の倫理についての話がしたいのか、どれも中途半端でよく分からない。

ただ、図版や写真は興味深いものも多かったので、それを見るためだと思えばまあそれなりに。

『ヒトラーの秘密図書館』ティモシー・ライバック/文藝春秋

評価:
ティモシー・ライバック
文藝春秋
(2010-01-07)

当たり前と言えば当たり前なんだけど、彼だって何もないところから生まれたわけではなくて、他の誰かや本に影響を受けて、それでああいう人物として形作られていったはずなんだよなあ、と。
生まれつき持っているものと、外から取り込んだものとそこからインスパイアされたものと。
その総和でひとりの人間が作られているんだとして、彼の(こういう言い方をしても良いならば)「異常さ」はその部分のどこかに由来するものなのか、総和の結果なのか。
こういうふうに切り分けること自体無意味なのかもしれないけど、読みながらそんなことを考えていた。
つまり、何かひとつ違っていたら、彼は彼ではなかったのか、それともたいして変わらなかったのか、ということなんだけど。

『衣裳術』北村道子/リトルモア

著者の手がけた衣装の写真が半分ぐらいと、エッセイが半分ぐらいなのですが、そのどちらもが中途半端な印象。
どちらかに特化して欲しかったな、と。
写真も、映画のものばかりだったのですが、それは見ようと思えばいつでも作品を見れば見られるのだし、むしろCMとか雑誌とかで手がけたものが見たかったなあ。

エッセイは、読んでいて草間彌生さんのエッセイを思い出した。
まあ、作品が良いと思ったからって、その哲学にまで共感できるとは限らない、ということかな。

『深読みシェイクスピア』松岡和子/新潮選書

面白かったです。
こういう翻訳ものの原文のニュアンスや、ここでこう言い回し、こういう言葉の使い方をしているのはこういう意味がある、といったことを解説している本がけっこう好きだったりします。
それは単に対象となっている作品についてよく分かるから、というだけでなくて、その言語(この場合は英語)特有の考え方とか根っこみたいなものが多少なりとも感じられる気がするので。
言葉の表面にはなかなか現れないけど、その言語を母国語に持つ人たちには当たり前に共有されているはずの、イメージだとか認識だとか。
そういうものがたぶん本当はいちばん大事なんだろうなあ、と思うのです。
ある言葉を本当に理解するというのは、その言葉の依って立つ文化を理解するということなんでしょうね。
そしてこういう本を読むと、それがとても難しいことだというのを実感する。
言葉が違うだけで見ている世界がこんなにも違うものなのか、と。
たとえばだけど、ある言語で雨を現す言葉がひとつしかないとして、10種類の雨を表す言葉を持つ言語の人とは、やっぱり見ているものからしてまったく違うんでしょうね。

あとは、著者の方が蜷川さん演出のシェイクスピア作品の翻訳を手がけている方なので、その辺の裏話が出てくるのが舞台好きには興味深かったです。
訳文には表れていない本質を捉えてしまう役者の直感というか嗅覚というか、そういうものに凄いなあと思ったり。



* CALENDAR *
<< October 2017 >>
SunMonTueWedThuFriSat
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
* ABOUT *
* SELECTED ENTRIES *
* CATEGORIES *
* ARCHIVES *
* TRACKBACK *
* COMMENTS *
* LINKS *
* RECOMMEND *

 モードの迷宮 

  
* MOBILE *
qrcode
* OTHERS *
* SPONSORED *